第2回 公害の調査に参加した時期

第2回 公害の調査に参加した時期


私は上智大学理工学部化学科を卒業後、教授の紹介から、当時、産業界で取り扱う化学物質の毒性調査をする分野の第一人者だった久保田重孝医学博士(日本産業衛生学会会長)のもとでお世話になる事になりました。

私が大学を卒業しようという昭和41年(1966年)は、池田内閣以来の「所得倍増」という国策のもと、30年代後半から急激に立ち上がった経済成長がいよいよ勢いを極め、反面、その高度成長の陰で「公害」が噴き出して大きな社会問題になっていた時期でした。

私が就職する少し前から、新潟県の阿賀野川流域で、熊本における水俣病と酷似した患者被害が次々と報告されていました。そしてその原因は、上流に立地する化学会社の工場排水に含まれる水銀が原因ではないかと、マスコミ等では報じられていました。

私も学生時代から水銀については研究テーマとしてきた経緯があり、個人的には、水俣病と同様に水銀による神経毒で被害を説明する方が当たっているように思えました。

ところがその化学会社は、自社工場の排水中の水銀が原因ではなく(つまり水俣病ではない)、他社のモノフロロ酢酸ソーダこそが真犯人だと主張していました。その案件が労働衛生サービスセンターに持ち込まれ、新人ながら私も犯人探しに関わる事になりました。

そこで、気の毒ですがネコやネズミに犠牲になってもらい、実験を行いましたが、新人の私にはかなりゾッとくるものでした。大変な思いをして導き出した結論は、なるほど(モノフロロ酢酸ソーダによれば)水俣病とやや似た症状こそ見られるものの、とても断定するほどの類似性はなく、むしろ水銀との因果の方が説明がつくというものでした。

それらネズミやネコが犠牲になってもらったおかげで、阿賀野川流域での被害は国により水銀中毒と特定される事となり、そしてこれは「第二水俣病(新潟水俣病)」と認定されることになったのです。